吉田“鉄弦”ジローとは何者か?
2026年7月29日
私は無名だ。
それを知っている時点で、あなたは私を知っている。既に無名ではなくなった。
では、私は何者なのか。ここではプロフィールでは書ききれなかったことを書こうと思う。
ギターとの出会い
岸和田で生まれ、阿倍野区で育った。中学までは野球に打ち込み、プロ野球選手を夢見ていた。しかし、その夢は自分で絶った。団体競技には向いていない。そう自覚したからだ。
そのころからFMラジオを聴くようになった。学校から帰ったら、すぐにラジオをつける。当時は歌謡曲全盛の時代。ロックなどの音楽がメディアから流れてくることは、今ほど多くなかった。そんな中で、矢沢永吉と出会った。そして「成りあがり」を読んだ。音楽に夢を見た。ギターを手にした。アルバイトの給料袋を持って、楽器屋に駆け込んだ。それが、すべての始まりだった。
「練習不要」を作った人間が、練習に夢中だった
今では「練習不要の上達術」を提唱している。しかし、ギターを始めたころの私は、練習することが楽しくて仕方なかった。練習が苦痛ではなかった。指の皮がめくれる。そして、どんどん皮が硬くなっていく。それが嬉しくて仕方がなかった。
「プロになる。」その一心で進学もせず、バンド、アルバイト、練習に明け暮れた。そして、やがて声が掛かり、クラブのハウスバンドの一員としてギャラをもらえるようになった。普通のアルバイトよりも、はるかに高額だった。この経験は、その後のギター人生に大きな影響を与えた。
ギターで人に伝えるということ
ハウスバンドでは、さまざまなジャンルの音楽を演奏した。誰もが知っているスタンダードなヒット曲を再現する。客に音を伝える。そして、感動させる。これが難しかった。ただギターが上手いだけでは足りない。訓練に明け暮れる日々が続いた。
そう。必要とした訓練だった。ここは、現在の「練習不要」という考え方にもつながっている。目的があった。必要だった。だから訓練した。
そして、ある日。「ギター、凄いね。」そう声を掛けられた。その瞬間、自分が一つの壁を突破したことを悟った。そして、その人に音楽を伝えるために必要な技術が、ようやく理解できた。ギターが弾けるようになることと、人に音楽を伝えられることは違う。この経験は、今でも私の根底にある。
東京へ
しかし、現実は厳しかった。音楽だけでは食べていけない日々が続いた。そして決めた。東京へ行こう。それが、現在へと続く転換点になった。
東京では、数々のプロとのセッションやライブを経験した。タレントとの楽曲制作やプロデュースにも携わった。そして、それと並行してギター教室「ジェイズギタージム」を立ち上げた。
最初から今の考え方だったわけではない。むしろ、「練習しなきゃ上手くならない。」そう生徒を突き放していたこともある。
何を伝えるべきなのか
しかし、時代は変わった。コンプライアンスは強固になった。ラップや宅録は身近なものになった。CDはサブスクリプションに取って代わられた。ギターのレッスンは、YouTubeでも受けられる。
そんな時代に、私は何を伝えればいいのか。それを考えるようになった。そして、上手くならないと悩む生徒たちを見続けた。そこで観察して見つけたのが、「心身の不一致」だった。
上手くなりたい。しかし、体がついてこない。頭の中にある理想と、現実の身体との間に溝がある。ならば、どうするか。理想を追いかけ続けることをやめればいい。理想に近づくための反復練習を最初から要求するのではなく、脳や身体がもともと持っている無意識の精密な動きを、ギターに利用できないだろうか。そう考えた。
そして、複雑な理論をできるだけシンプルにした。5つのコードと、1つのリズム。まずは、それだけでいい。そこから自分の身体を観察し、音楽を楽しむ。それなら、誰でもギターを続けられるのではないか。そうして、「練習不要の上達術」は形になった。
そして、今
私は今も、その考え方を伝え続けている。ただし、「練習なんてするな」と言いたいわけではない。私自身、必要なときには徹底的に訓練してきた。だからこそ分かる。練習は目的ではない。
ギターを弾くことも、技術を身につけることも、その先にある音楽を楽しむための手段だ。ギターを始めた人が、練習できない自分を責めてギターを置いてしまう。そんな必要はない。ギターはもっと自由でいい。そして、自分自身の身体や音を観察すれば、まだまだできることがある。それを伝えることが、今の私の仕事だ。
私は吉田“鉄弦”ジロー。プロギタリストであり、ギター講師であり、ギター製作者でもある。そして現在も、ギターについて考え続けている。まだ、答えは出ていない。